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2007年1月19日 (金)

PALOPO現場の仕事開始(5) By 南果

◆皆さんがマカッサルの生活を味わった1週間後、
いよいよPALOPO入りです。

コックさんは私の使っていたボーイを下働き
(pem-bantu)として望んだので、彼も同行。

◆早朝4時に出発し8時間後中間地点となる
山の山頂 (Pencak) に到着、1軒しかない茶店と
いおうか、屋台 (Warung) に入り陳列棚に有る
おかず類を各自選んで昼食、先のひん曲がった
(Bengkok) アルミのホーク (Garpu) も、
おかずの煮姿も、空腹の為余り気にならない様子、
予定の行動でした。

◆これを食べておけばPALOPOのMessで食べる
コックさんの料理は美味いに決まっている。



◆後、一峠越えれば終着点PALOPOという所Makaleに
着きました。今では有名なコーヒー(Kopi) と
成ったトラジャ・コーヒーの産地です。

◆トラジャ (Toraja) 独特の文化もその時の私は
知りませんが、私の使っていたボーイはトラジャ人で、
インドネシアでは有名なトラジャコーヒーが
ある事は聞いていました。

◆体に積もった埃を落とし、うがいをして、コーヒー
ブレークと行きました。喫茶店でなく、コーヒー店
でもない、裏がコーヒー豆の倉庫で、表が豆の
販売店と言う家の土間のテーブルに出された
コーヒーを飲みながら、親父と談笑。

◆可笑しかったのは、おやじから聞いた話です。
「どんなコーヒーが最高か?」
私が知らないと答えると、「では、教えてやる」、
「一番美味いコーヒーは、豆(Kacang)だけを檻で
飼っている鼠(Tikus)に食べさせ、其の糞(Tae)で
入れたコーヒーだよ」、与太話で無いのか、真剣な
顔で言っていました。

◆とてもポーカーフェイスの出来そうも無い人柄に
見えましたが、未だ試した事は有りません。

◆ブラックコーヒーが腹にしみ、疲れが(Capek)
消えて行きます。

◆トラジャの風葬がかいま見える山道を進み、
冷え冷えした峠をがたごと越えてPALOPOの町へ
入りました。

四辻 (per-empat-an) のコーナーに小さな食堂
(Depot)兼売店が有ります、町で只1軒の店です。

◆椅子に座るやビールは無いか聞きました、冷蔵庫
(Kerkas Es) はないので温かいビールが出てきました。

2週間前に来た時は1本のビールさえ無かった
のですが流石は中国商人。

◆後日(Kemudian Hari)判った事は、此処は宗教
(Agama) が強い所だと言う事、ビールなど飲む人は
皆無 (Sama Sekali Tak Ada) だと言う事。
でも、以降は何時立ち寄ってもビールはありました。

◆暖かいビールはとてもビアホールでごくごく飲む
様には行かないものです。
が、酒飲みですが胃腸が強く無い人に言わせれば、
ビールは暖かいに限る、下痢しない。

◆現場でイ国側技術者(と言っても、マカッサル
Hasanudin大学の学生達5人と教授です)と現場で
挨拶、敷地内を歩き、簡単な討議をして昼食、現場
での食事はS氏からの指示は無かった様で地元職員の
手配、時に小石混じりの黒っぽい飯(Nasi)に、
野菜(Sayur2-an)の煮付け。

◆野菜は確かカンコン(Kangkung=インドネシア何処
にでもある物だが、日本人は炒めカンコンが何故か
好き)だったか?

◆外国人に供する食事としては? と思ってか
学生達の少々恥ずかしそう (rupa-nya Malu2) な顔、
それでも我々が先に箸をつけるよう料理 (masak-an)
を回してくれる。

◆私は笑いながら (Sambil ter-tawa)、「さあ、
暑い現場で昼飯 (Makan Siang) を食べる時は
サングラスを掛けましょう」皆笑いながら食べるが、
飯 (Nasi) よりバナナ(Pisang)に手が伸びる。

2007年1月12日 (金)

PALOPO現場の仕事開始(4) By 南果

◆夕暮れ時は皆で散歩、海岸沿いにあるマカッサル
随一の盛り場、といってもSumba Opu通り約2kmの
1本道、

別称、肩触れ合い市場(Pasar Senggol)には
醤油バターだれの焼き、唐もろこし(此れは
イ国では珍しい味で、ジャワでは主に只ゆでたダケ)、
豆腐のから揚げ(=Tahu Goreng,2cm角程の
アツアツを、新聞紙で作ったラッパの中に青唐辛子
数個と一緒に入れてくれる。

塩は付いてこないので、我々には食べ難い)、
バナナ揚げ、バナナ焼き(特大型バナナを7−
8cm長に切り、叩いてい1cm弱厚程にした物を
鉄板で焼き、甘だれを付けた串等も売られている。

◆Becak(3輪人力車)がたむろし乗って呉と言う、
通常はPasar Senggolの終わりまで乗ってRp.100、
−、 幾らだと確認すると指を1本立てた。



◆降りる際100ルピア払うと、1,000、−ルピア
だと言う、「バカな事をいうな」と口論していると、
仲間のBecakが約10台集まった、怪我をしては
つまらぬと、悔しいが払う。

◆数日前、スラバヤ発のニュース (Berita) で柔道に
心得の有る日本人がBecakと喧嘩し、ナイフ (Pisau)
で刺され、死んだ事が突然頭に浮かんだのだ。

大勢のBecakに囲まれたとの事だった、犬死には
したくない。

◆此処のBecak屋の大半は腰の後ろに手のひら長の
ナイフを差している。

毒 (Racun) を塗っているナイフも有るので要注意と、
我がドライバーは私の身辺警護をする時はナイフを
常に携帯している。

◆マカッサル以外、何処の港町にも海洋族のブギス
(Bugis)人、群を作って寄留するマドラ(Madura)人が
いる、ナイフを携帯している人は多い。

◆各地のナイフを骨董屋 (Toko Antik) で眺めると
色々な形がある。ブギスの物の多くは短い握り部分
から刀身部へかけて内側に曲がっていて刀身が薄いが、
差してひねれば刀身の首が折れる。

◆アチェの物の多くにはアラビア語が浮き彫りされて
いている、呪文なのか?品のある物が多いように感じた。

◆又、この国何処でも、田舎道をすれ違う人の多くは
山刀、鎌を抜き身で持っている。気にすれば気に成るが、
すれ違いさま凶器と成るケースは殆ど無い様だ。

2007年1月 6日 (土)

PALOPO現場の仕事開始(3) By 南果

◆約1週間後〈se-minggu belakang-an〉日本人
技術者(Ornag Teknis Jepang)第1陣(Kelompok
ke-satu) を、マカッサル空港でジャカルタ駐在員
から迎入れる。

◆建築現場主任 (Kepala Orang Teknis Di Projek
Konstruksi) 、ブルドーザー運転兼修理工、沖中士
(Ahli bonkar-muat Kargo)、トビ職 (Orang
PekerjaTeknis Di Atas Struktur) とコック
(Tukang Masak) さんだ。

◆マカッサルや現場には、重機材を無傷〈Tanpa
luka-i〉で積み卸 (bongkar-muat) できる人達が
居ないので、沖中士は貴重な存在、トビ職達も
同様当地に居ない職方。

◆何の娯楽(hibur-an)も無い現場での楽しみは
食べる事、コックさんの腕前は充分吟味した。



◆此れにはAcehに従軍した元軍人からの強い
アドヴァイスも有ったからでした。
娯楽の無い所に長期居ると、終いにはオカズの
魚の大きい、小さいが諍い(per-tengkar-an)の
基になる由でした。そしてその様な事が確かに
起こりました。

◆マカッサル宿舎は部屋数も有り、前庭、中庭は
緑の芝、後庭にバトミントンコートと、広々
していたので、彼らは満足 (Puas)。

◆コックさんは毎日ボーイと市場(Pasar)へ
食材 (Bahan Masak) の情報収集。

◆前庭には大きいマンゴ (Mangga) の木とライム
の潅木がありました。

◆此方の人は元来酢 (Cuka) が嫌い (Tdak Suka)、
と言うよりは「常に酢を採っていると、腸 (Usus)
ががボロボロ (bolong2) になる」と言う迷信を
信じている人が多いので、ライムも此方では主に
焼き魚に添えて出て来る程度、果実はたわわに
実っているのに、取る人が居ない。

◆私自身は大のジン (Gin) 好きだったのでジン、
品切れの場合はボルス(確かオランダ産でBOLSと
ラベルに有った、ジンに似た酒)の水割りにライム
を充分搾って飲むのが楽しみでした。

2006年12月29日 (金)

PALOPO現場の仕事開始(2) By 南果

◆ある土曜日 (Hari Sabtu)、現場責任者のS小佐
(Major Kolonel,「クーデタ−発生」の項でLetnan
Kolonelと記したのは間違いです、訂正いたします)
が突然宿舎にやってきて、PALOPO現場で必要な物は
何か? と聞かれる.

◆仕事机xxセット、ベッドxxセット等応える
(men-jawab)、彼はメモを取り直ぐに現場に送ると言う。

◆加えて、「明日 (Besok) の日曜日 (Hari Minggu) に、我々の社員と私の田舎へ(Ke Desa)リクリエーション
(Rekreasi) に行くが、一緒に行かないか?」
私には何も予定が無い (Tidak Ada Rencana) ので
OKすると、「お宅のセダン(Sedan)も同道して
貰いたい (me-minta)」。



◆日曜日朝、彼を待っていると、宿舎へ来るなり出発、
彼は運転手の横へ乗り、店へ直行。菓子類
(se-macam Jajan) 大量と、ビール2ダースを
トランクへ積み出発(ber-angkat)。

◆2時間程、田舎道を通りJenepontoへ到着、
海岸沿い (Pinggir Laut) に有る
広い塩水堀 (Tambak) は彼のものだと言う、既に
トラックで着いていた従業員(Karyawan)達が
テント(Tenda)を設営中。

◆1部の者達は堀から魚を取り、火を囲んで串刺し
(Sate) の海老(Udang)、バンデン(Bandeng=
塩淡水混合地に住むボラのような形の淡白な魚)を
囲んで談笑したり、歌ったり。

◆私の横に座った (Duduk) S氏は、にこやかな顔だが、
小さい体はエネルギッシュ、時に湯気 (Wap) が出る
頭は何時も何かを考えているらしく、従業員に次々
指示が出る、年齢(Usia) は40歳近くか (Hampir
Empatpuluh Tahun)?

◆従業員達も「Ya, Ya」と答ながら機敏 (gerak-
an Cepat) に動いている。

◆大型の海老と手のひら1.5倍長のバンデンが
焼けた (di-bakar)。

◆調味料 (Bumbu) は甘い醤油 (Kecap=此処には
アマーイ醤油と、塩辛い醤油が有り、日本の様な
中間味の醤油が無い、現在は街のスーパーで日本の
醤油が買える) にニンニク(Bawang Putih) 大程の
赤たまねぎ (Bawang Merah) を刻んだもの(生は
ニンニク、玉葱の様な臭いは無い)、Jeluk Nipis
〈カボスの様な小さい柑橘類、魚料理に良く付いて
来る〉とき刻み唐辛子(Cabe) 、このたれに魚をつけ
ながら食べ、ビールを飲む、美味い。

◆「美味い!」と言うとS氏は満足気だ。

◆バンデンは首の回りに小骨が多いが刺さる硬さ
ではない、ほんのりと泥臭いが、白身で淡白な味、
此方製ソースに合っている。

◆回教徒の (Islami) S氏はビールを一口飲んだ
だけで、しきりに私に勧める。

◆仕事の話はせず、この田舎の事を主体にオシャベリ、
次回は(Lain Kali)田舎の家に招待するからぜひ
来てくれと言う。「了解」。

◆夕方帰Mess.、次の日彼のと言うか、我々のと
言うか、Projek (Projectの事)の事務所(Kantor)
へ行く、魅力的な(Daya Tarik)女性も数人いましたが、
自重2(ber hati2).

◆翌日、S氏と現場へ、臨時宿舎(Mess Yang Sementara)
にはベッド他、最低必要な物が入っている。流石
(Memang) 軍人だ。

◆この宿舎は現場入り口の小高い岡 (Bukit) の上に
ある家で大きい寝室には、1人用ベッドが15台程入る。

◆オランダ人が住んでいたと言うが、守備隊兵舎だった
かも知れない。

◆当時の私の頭(Otak-=脳)の中には仕事の進め方に
就いての考えしか無く、このPALOPOの歴史(Riwayat)
や此処が発祥だというブギス語(Bahasa Bugis=
現在ブギス族・語と言えば皆マカッサルを連想する)
の事、このProjekの現地での代表者は皆からOpu
(此処の言葉で王様)と呼ばれるアンディ・マクラオ氏
の家の歴史 (Sejarah)、今想えば興味のある事柄が
多くあったのです。

◆寡黙 (pen-diam)で、静か、やさし気 (Baik Hati)
の氏と多くを語ることが出来なかった事は残念
(Sayang)な事でした。

◆この頃に成ると、Projekに参加する反乱軍
(Pem-berontak-an) 兵士が多く成ったのか、彼らに
依る妨害行為(Aksi meng-ganggu)も無く成ったのか、
夜間の小便に小隊がついて来る事は有りませんでした。

2006年12月22日 (金)

PALOPO現場の仕事開始(1) By 南果

◆仕事相手の主局はジャカルタにあり、現場のある
支局はマカッサルにあるので、仕事開始迄の書類
手続き (Tata cara-nya) は中々面倒で、両地間を
行ったり来たりしました。
  
◆当時ジャカルタの飛行所は現在市中のクマヨラン
(Kemayoran) に有りました。マカッサル行きの便は
週の内の数日で、しかも1日1便です。
  
◆従い、行く時は早朝4時に起きて飛行場へ行き、
切符発売時間を待ちますが、突然、軍人(Tentara) が
団体 (Kelompok) で来ると、搭乗権は彼等に優先され、
其の日の切符は売り切れに成ります。



◆金持ち(Orang Kaya)商人 (pe-dagang) は切符
売り場窓口の裏に廻り(ber-putar)、余分の料金を
払って切符を手に入れようと右往左往します。

◆ガルーダ(国営航空会社Garuda) の職員に近ずく
(dekat-i) 人、仲介人(Calo)を動かす人。

◆そんな事に馴れない私は、その光景
(pe-mandang-an) を見ているだけです(Cuma Lihat Saja)。

◆目を擦りながら宿舎(Mess)へ帰ります (Pulang)。

◆この様な事が3日も続くと、疲れて(Cape)
ぐったりして仕舞います。

◆マカッサルはジャカルタに比べ緑(Hijau)が多く、
気分が和らぎ (Tenang)ます。

◆毎朝(Setiap Pagi)地方紙を読みながらラジオの
ローカルニュースを聞く事が日課です.

◆新聞の内容は30%位の理解度だったしょうか?
なるべく見出しだけでも理解したく、宿舎に出社
する社員を待って、尋ねたりしました。

◆そして、常に思う事は、他国から受信する短波
(Gelombang Pendek)放送に比べ( ber-banding)、,
日本からの電波が非常に (Sangat) 非常に弱く、
聞き取りにくい事です。

◆この状態は現在も変わって居ないでしょう。
そしてつまらない (Tidak ter-tarik) 放送内容も。

◆国技だと言う相撲の実況放送が、ダイジェストで
さえ放送されていませんでした。

◆日本に居る時は聞いたことの無い歌謡曲も、
たまに受信すると、日本の香り(Wangi)がして涙が
(Air Mata) うるむ事さえ有りました。

2006年12月15日 (金)

30事件(クーデター)(5) By 南果

◆1966年3月11日スハルト将軍はスカルノ
大統領から職権移譲書を受けました。

◆この後この書類の本紙(Asli)が紛失、現在
保存されて居る書類はコピーされたもの、と言う
椿事が有ったり、スハルト将軍側近(Orang yang
dekat)が幾人も長期拘束(Tahan)されると言う
変事も有りましたが、スハルト政権が固められて
行きました。

◆スハルト大統領代行は選挙(Pemilihan)を経て
大統領と成り、右より外交路線(tujuhan diplomasi)
を明確にし、西欧諸国からはSmilling President
として親しまれる様になりました。



◆アメリカ・バークレー大学出身者達の経済閣僚
(Mentri ekonomi)の起用があり、経済開発政策にも
成功し、スハルト政権は長期(Waktu panjang)に
及びます。

◆どの国の政権でも、それが長期に亘ると、弊害が
目立つ様に成ります。国民からの支持率も落ち、
32年間と言う長期政権(ke-kuasa-an politik)
は終焉(ber-akhir)します。

◆1970年、仕事で行った南カリマンタン、
ラウト島の指定宿舎は隔離されている元PKIの年老いた
(Lansia)夫婦により管理されていました。

◆この村で数人の元PKIにも逢いました。
農業(per-tani-an)をする土地は有るので食べては
行けるが、ジャワに帰る事が出来るのか、どうかは
解らない、と寂しげ(Sedih)な顔かお。

◆1990年代になりジャワ島内の旅行先で
元PKIの2世(Generasi yang ke-dua)に偶然逢う事が
幾度かありました。私が外国人である事を知ると、
色々しゃべり(Bicara)出します。

◆立派な履歴(Riwayat hidup)を持つ人も居ますが、
公職には就けないと憂鬱そうにつぶやく。

◆人生(ke-hidupan manusia)を短く感じ、又長く
感じる人々も居るのは当然として、近親者がそして
本人が、何時何処でどの脇道(Gang)を通るかに
より運(Nasib)と言う箔か垢(Daki)が付いて来る。

しかし運の付いた瞬間、本人に採っては箔なのか
垢なのか解らない。

◆これが恐ろしい事なのか、愉快な事なのか、人生を
終わって見なければ解らない。

◆この国の人々は90%以上がイスラム教徒
(Muslim=男、Muslimah=女)、彼等と話をしていると、
考えの中に輪廻(Karma)思想があり、地獄極楽
(Neraka、Surga)もある様だ。

◆この世は短く、あの世(Akhirat)の滞在は非常に
長いと言う。そのあの世とやらを心安く(Santai)
過ごすには、この世での過酷(Kejam)を偲(me-nahan)
ばなければならないとも言う。

◆しかし降り注ぐ不運(Nasib buruk)に耐える強さを、
宗教(Agama)は人間にもたらして呉れるのか?

私の人生が短すぎて未だ判りません。 

2006年12月 8日 (金)

30事件(クーデター)(4) By 南果

◆PKIと中国本土との関係も明らかになりインドネシアは
中国と国交断絶。

ジャカルタの中国人街には火付け事件が多発、
中国大使館(Kedutaan cina)も焼かれ(mem-bakar)
ました。

◆マカッサル市内(Dalam kota)は以前に増して
中国人の車が焼かれる、家が焼かれる。火事場
ドロボーが横行、火事場が無くても怪しい人間が
出没する事態です。



◆市内に或る中堅の日本商社の事務所が有り、
所長とは親しく付き合って貰っていました。

所長は警察署長に掛け合い、護身(Bela)用のピストル
(Pistol)を借用した由、私にもピストル携帯を勧めます。

◆よくよく考えましたが、事故が発生した場合、
凶器(Senjata tajam)を所持していれば間違った
判断(pe-nentu-an)から加害者に成ってしまう
可能性もあり、私の心情には合わない。

所持はしない事にし、若い兵隊2人を雇い警備(Jaga)
に当たらせました。

◆引っ越した我が社宅の両隣は中国人の家だったので
両家とも丸焼けに成りました。

◆我が社が行っているプロジェクトのイ国側(Pihak
Indonesia)の現場責任者(Punya tanggung-an di
plant site)はマカッサルに住む陸軍少佐(Letnan
kolonel)S氏、噂では与党政党の地方支部長で
新聞記者(Wartawan)だとも言う。

◆この国で目的(Tujuan)の人に絶対(Mesti))会わねば
ならぬ場合は夜を徹して、の積もりで敢行(laku-kan)
せねばならない。

◆初めて出かけたS氏宅の庭(Taman)には夜8時を
過ぎているのに、塀(Tembok)の外まで4−50人の
人達がしゃがみこんでS氏との面談(Wawancara)を
待っている。

◆家人に私の来訪(Ke-datang-an)を知らせて
欲しいと伝える、直ぐに会うとの返事を貰い、面談。

◆まず、この人達は何なのか?と尋ねる。S氏は
ニヤニヤ(Senyum)しながら町の問題、住民間の問題、
親族縁者間(Antara famili)の問題、夫婦間
(Antara pasangan)の問題などを相談に来ているとの事、
それ等の問題(Masalah)を即決しているのだとの事。

◆裁判官(Jaksa)のような人だが時間をかけないで
済ませる方法とは?と尋ねてみる。

◆彼曰く「何処の国でも、何処の場所でも、民衆
(Masyarakat)の中には問題がある。裁判をするには
金と時間が掛かる、それをしないで問題を解決したい
人達がこの人達で、私も其れを理解しているので、
問題提起者(Orang punya tentutan masalah)と
受け手の中に私が入り仲裁(meng-adil-i)する。

◆話し合いが付かず、どうしても勝ち負けを決さねば
成らぬ場合は、私の村(Jeneponto)の習慣に習って
当事者代表二人がサロン=Sarung(円筒形の布、
縦およそ2m、円筒形にした時の最大幅2m程か? 

インドネシア人は此れを常備、着物(pakai-an)代わり、
風呂敷として、幼児を担ぐ帯紐としてなど等
多岐に亘って使用している)の中に入り鎌
(Celurit)を持って決闘(Perang tanding)する」。

◆小柄(Raga yang kecil)でハゲ(Botak)かけ頭の
S氏はニヤリと言う「この解決法を期待して皆ココ
(Disini)に来る(Datang)んです」。

◆イヤ! (Doh!)、大変な人が私の仕事の
パートナー(Pelawan)に成っているんだ、とじっくり
感じ、又、副社長がS氏には充分気を付ける様にと
忠告(nasehat)してくれた事を思い出しました。

◆問題の火付け事件に就いて(Tentang)相談したいと
言うと、心配しないで宜しい(Tidak perlu kwatir)、
お宅に被害は及ばない、との事。

それ以降、彼の言う通り我が家に被害は全く有り
ませんでした。

◆乞われて預かった(di-titip-i)ホテル・オーナー
A氏宅から運ばれた重いツズラも無事(Aman)に
返還出来ました。

◆ジャワ島中心に大掛かりなPKI狩が行われ、多数の
人々が行方不明となり、又集団(Kelompok)で
東インドネシアの島々に隔離(Isolasi)されも
しました。

2006年11月24日 (金)

30事件(クーデター)(3) By 南果

◆今回のクーデターには当時ジャカルタで建設中の
アジア大会用スタジアム(Arena)の資材が中国から
送られ、その輸入資材の中に共産党員に譲渡する
武器(Senjata)が入っていたとの噂(Isu)が有り、
その為中国人が憎しみの標的(Sasaran)にされて
いる事も聞きました。

◆中国人と言っても台湾(Taiwan)から来たと言う
人と中国本土からやって来たと言う人が居ます。

◆政治的デマが毎日流れ、「台湾は良いが中国は
悪だ」、しかし中国本土からの人々にはそれなりの
自尊心(Harga diri)があり、出来れば其の立場を
貫きたい、の考えがある様でした。



◆一方、民衆は右か左か、早朝から声高にアジり
ながら大道を右往左往する。

◆中国人の家では台湾=中華民国と中国本土=中華
人民共和国(RRT)の国旗を両方備え、毎日町の
様子(ke-ada-an)を観ては国旗を変えて掲揚すると
言う事態(Situasi)。

◆1週間経ち、ラジオが再開、其れに依ると
9月30日夜、国軍7将軍がインドネシア共産党
(Partai Politok Indonesia=PKI)に拉致され、
PKIの軍事基地、ジャカルタ郊外のルワン・ブアヤで
惨殺されたが、ジャカルタの戦略作戦司令部隊長
スハルト准将(Brigadir jenderal)により鎮圧され、
ジャカルタは平穏を取り戻しつつあるとの事、

しかし報道管制が敷かれている為、ニュースソースは
限られ、詳細は解らない。

◆ホテルには毎日のように軍人、警察官(Polisi)が
武器アラタメの為着剣でやって着ては、荷物を調べる。

◆その際は、嫌がらせをして金をせびる(Minta)
様な事は全く有りませんでした。彼等も真剣に
任務(Tugas)を遂行していたのです。

◆我が社の宿舎(Mess)は以前から1軒屋を契約
していたので、そこに移りました。

◆毎日クーデターの詳報、即ち大量の共産党員
(PKI)に依る軍事訓練(latih-an miiliter)、
7将軍の拉致(Culik)された方法、女子共産党員
(GERWANI)に依る将軍達への惨殺状況、そして、
KOSTRAD(戦略作戦司令部)スハルト准将に依る
PKI軍掃討作戦、共産党撲滅運動(Aksi mem-berantas-an)
のニュース(Berita)が続きます。

◆聞いていて感ずる事は、如何にジャカルタ郊外
とは言えPKI多人数による陸上軍事訓練がどうして
発覚しなかったのか?

◆将軍達はPKIが蜂起することを感じており、それに
先駆け国軍によるPKIせん滅(meng-hancur-kan)を
計画していたにも拘わらず、如何して将軍達個人
個人の防御姿勢に欠点があったのか?

◆彼等はジャカルタ中心地に住んでおり、歩哨も
居るのにどうして、緊急時の縦、横への通報
(meng-hubung-kan)が皆無だったのか?

疑問(Tanda tanya)に感じました。

2006年11月17日 (金)

30事件(クーデター)(2)■ By 南果

◆1995年10月1日の昼頃、近くのスカルノ・
ハッタ港(Pelabuhan Sukarno-Hatta)付近で、
連続した発砲音が響き出しました。

◆突然(Tiba2)、軍人(Tentara)がやって来て
「国軍(TNI)海兵隊(KKO)が共産党員(AnggotaPKI)と
撃ち合い(tembak-menembak)をしているので、家に
帰ってくれ」と言う。

◆宿舎のホテルに戻りましたが、ホテルは武装
した(pe-langkap-an)兵隊に囲まれている、事情を
話し部屋に戻り、ゆっくりと隣人(Tetangga)達に
状況を聞く。



◆「クーデター(Kudeta)が起きたらしい、詳しい
(Teliti)事は解らないが安全第一(utama-kan-
ke-selamat-an)を考えて、事情を聴取しましょう」
との事。外には出られず、まんじりと夜明(Fajar)けを
待つ。

◆夜中を通してホテル入り口側と裏の海岸通り側
との間で発砲が続いて居ましたが、肉薄戦には
ならない様子(rupa-nya)。TVの無い時代で唯一の
国営ラジオ(Radio Republik Indonesia) は
「ウントン中佐(Letnan kolonel)とやらがジャカルタを
占拠(men-jajah)した」の放送(Siaran) があっただけで
中断が続いて居る。

◆オーストラリア放送を聴いた人は「将軍(Jenderal)
7人が死んだ(Meningal dunia)、ジャカルタは混沌と
している」それ以降(Sejak itu)、外国からの
放送は妨害音が入り、聞けないとの事。

◆当時、マカッサルの一般家庭(pe-rumah-an umum)
には電話が配線されていませんでした。SSBを備えて
いる企業は未だ(Belum)進出して来ていません。
電話局へ行き連絡を試み(per-coba-an)ましたが、
操作不能(Tidak bias ber-operasi)状態。

◆この国の大きな町、何処にでも中心地(Sentral) に
スクエア広場(Alun2)が有ります。

◆当地マカッサルの広場には中国人金持ちの
乗用車(Sedan)をかり集め、群集が焼いていると
社員の報告(Laporan)。

◆本当なのか、社の車の窓(Jendela)に小さい
日の丸(Bendela Jepang)を張り、Yシャツに
ネクタイ(Dasi)を付けてスクエアに出てみる。

◆暴徒化(men-jadi orang amukan)した群集
(gerombong-an)の険悪な顔(Muka benci)が
右往左往、車を見つけ寄って(dekat-i)来る、中を覗く。
日の丸を見て、怖い顔をしながら躊躇(Bingung)
している。

◆結局(akhir-nya)、何もされずに済んだのですが、
何かのきっかけで、どう成ったか解らない状態でした。
暴徒の一人が、やれ!(Ayo!)とでも声を
出せば餌食(Korban)に成っていたかも知れません。

◆毎日短時間外出できるように成りましたが、
午後6時から翌朝までは戒厳令下です。

2006年11月11日 (土)

30事件(クーデター)(1) By 南果

◆我が社副社長(Wakil presiden)の懇意に
日本軍政時代、マカッサル・ヤマトホテルの
持ち主である中国人A氏が居ました。

◆ホテルの名はGrand Hotelに変わっていましたが、
好意(Baik hati)で大通りに面した小部屋を
事務所として使わせて貰う事になり、毎朝出勤、
日本技術者の受け入れ準備(menper-siap-kan)に
入っていました。

◆ホテルには常時軍人(Tentara)が多く泊まって
います、他に大型ホテルが無かったのです。

◆A氏に軍人達はホテル代をちゃんと払って呉れる
のか聞いた事があります。



答へは「軍には今金が無いから貸し金(Uang
me-minjam-kan)が溜まっている、でも、私は
中国人ですから、払って呉れる日を待つしかない」。

これは『返済は後日・・』の考え方で、南方華僑の
生き方の一つです。

◆具体的大成功例は若き日のスハルト大統領を
バックアップ(Bantu)して、インドネシア最大の
政商(Pedagan politik)と成った、林紹良氏です。

◆A氏はマカッサル港の前方(Depan)海上5km程
の所にあるサンゴ礁の島、Plau Kayangan(天国の島)
のオーナーでもあります。

◆暇な午後はこの島へモーターボートで行き、
泳いだり、ウニを採りビールを飲む。ウニは小型
ですが浅瀬に黒い帯を、大型のなまこは褐色の帯を
作って居ます。

◆この国の人達はウニ(Bulu babi)も、なまこ
(Teripang)も食べません。

子供達が私を遠巻きにし観ています。

◆泳いでは空を仰ぎ、「この空は日本に繋がって
いるんだなァ」独り言が出ます。

◆ホテルオーナーには当時7-8歳の一人息子
(Anak laki2)が居ました。Cちゃんです。

◆毎日(Setiap hari)、Cちゃんは我々の事務所前
(Depan kantor)で仲間(Kawan2)と遊んで
いましたが、何時も仲間の子供達に金(Uang)を
与えて(beri-kan)います、合 計金額はかなりに
成ります。

◆ある日オーナーに尋ねました、「どうして
(Kenapa)小さい子供にかなりの金を、毎日
あげるのか?」

◆オーナー曰く、「我が子に金を渡せば、子供
(Anak)は仲間の大将(Bos)になれる、仲間が
増えれば幸い、子供が大人に成った時、我等
(Mereka)が子供の協力者になる」と言う。

◆子供に対する教育法としては良いのか悪いのか
解りませんが、帝王学(Ilum kaisaran)の様な
モノの臭いを幾らか感じました。